【書評】人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか
玄田有史 東京大学教授が編纂した賃金にかかわる論文集。
多くの国で物価上昇を阻んでいる鈍い賃金上昇の謎を明かそうとする。
ここで紹介するまでもなく、有名な本だ。
失業率は歴史的低水準にあるのに賃金が上がらない。
賃金が上がらなければ物価も上昇しにくい。
各国中央銀行はなんとか物価を押し上げようと非伝統的金融緩和を講じたが、フィリップス曲線が機能していない。
この謎について16章にわたって様々な視点から検証がなされている。
正統的な手法によりファクト・ベースの議論がなされているという点で目を通すことをお勧めしたい書籍だ。
一方で、視点がやや内向きであるようにも感じる。
もっといい加減、もっとナラティブな話もあっていいように思う。
偏狭な移民政策をとり続ける日本ならではのことだろうか。
常に海外から移民が流入している欧米であれば、こうした議論だけにはならないだろう。
日本では移民の流入は限界的な現象かもしれない。
しかし、物理的に移民が流入せずとも、いわば《バーチャルな移民流入》の効果を受けている。
日本が輸出に重きを置いた経済政策をとり続ける以上、労働市場においても海外との裁定が働くのは避けられない。
日本の労働力のコスト・パフォーマンスがある程度海外と見合うようになるまで、日本の賃金には低下圧力が加わる。
賃金に下方硬直性がある以上、低下圧力を充足するパスは正社員の非正規化か物価や為替による低下しかない。
つまり、為替換算後で日本の賃金が低下しない限り、財や一部サービスの提供者の国際競争力は回復しないのだ。
このことは、長い目で見て実質賃金はマイナスでなければならないことを示唆している。
労働組合もこのことを理解し、昨今の労使交渉は現実路線に徹しているのだ。
筆者が言うまでもなく、賃上げの一つの壁となっているのはIT化・自動化であろう。
特に高度な能力が必要とされる分野で、IT化・自動化による省力化が進んだ。
つまり、優秀なホワイト・カラーの必要数は減った。
ほどほど優秀なホワイト・カラーを大量に必要ならば、日本で探すのが現実的だろう。
しかし、とても優秀なホワイト・カラーを少数探すなら、広く新興国まで広げた方が安くて済むかもしれない。
あるいは、新興国がそうした体制をとった場合、日本はそれと互角に戦える低コスト体質を作らざるをえない。
本書のアプローチは正統的なものだ。
賃金上昇という理想の未来をあきらめない姿勢は尊いものだ。
しかし、だからと言ってそれが実現可能である保証はない。
実際、本書が示すいくつかの処方箋の中には説得力に欠ける抽象的なものも含まれている。
私たちは《2年で2%》というほら話を聞いたばかりだ。
本書に欠けている点があるとすれば《諦観》というシナリオなのではないか。