【輪郭】コストがすべてだ!!
さて、渡辺教授がこのレビューを評価したポイントの1つには、有識者による「擦り合わせのない」講評が含まれている点があった。
決して日銀の「お手盛り」ではないという。
慢性デフレのコストを見るべき
渡辺教授の講評では「プライシングの歪み」の議論の他、もう1つ重要な議論が欠落しているとの苦言がなされている。
コメント#2:慢性デフレのコストは何だったのか
25年間の政策レビューを行おうとする際に最も重要な論点は、「慢性デフレにはどのような弊害があったか」であり、その弊害が日銀の施策によりどの程度、除去できたかである。
報告書では、「賃金が硬直的な場合には労働者・企業ごとの生産性に応じた賃金設定が困難となる可能性がある」といった記述はあるものの、日銀として慢性デフレのコストをどう認識していたのか、そのコストを政策によって減らすことができたのか否かという議論がほぼ完全に欠落している。
「慢性デフレのコスト」を考えるとは、まさに今回用いられた「反実仮想」そのものだろう。
世間一般で行われている費用対効果分析といった手法の意義を認めるなら、「慢性デフレのコスト」を考えないことが片手落ちだと言いたいのだろう。
(実際、ディスインフレの時代、渡辺教授は一貫して日銀の不作為を批判してきた。)
まったくその通りだ。
超金融緩和のコストを見るべき
その一方で、こうしたところに人間の世界の難しさを感じるのは筆者だけだろうか。
仮にある政策のコストを考えるのが必須であるとするなら《超金融緩和のコスト》を考えるべきなのではないか。
それこそ今回日銀が示した姿勢だ。
レビューでは上述のとおり、短期では効果よりコストが少なく、長期では逆転しうる、との結論になっている。
私たちは、デフレのコストと超金融政策のコストのどちらを考えればよいのだろう。
リフレ政策の不作為と金融政策正常化の不作為のいずれを責めればいいのだろう。
こうした迷いに囚われる時、私は黒の時代の前、白の時代の日銀を思い出す。
2013年まで日銀総裁を務めた白川方明氏が退任時の記者会見で自身の進めてきた政策の自己評価を求められた時、丁重に断っていたのを思い出す。
評価は第三者によってなされるべきとの理由の他、もう1つ重要なポイントを指摘している。
わが国を含め欧米諸国が現在展開している非伝統的な政策の評価も、いわゆる「出口」から円滑に脱出できて初めて、全プロセスを通じた金融政策の評価が可能となる、そうした性格のものだと思っています。
マクロ経済学の限界
つまり、金融政策におけるデフォルトはどこにあるのか、ということだ。
筆者からすれば、デフォルトは伝統的金融政策、伸びっぱなしでない経済安定化政策にある。
だから、現時点での異次元緩和の費用対効果の分析結果は(日銀が認める通り)かなり怪しく見える。
将来、インフレや円安の昂進など、さらなるコストが積み上がり、日銀の懸念が実現してしまうのではないかと心配だ。
(金融市場の機能低下、潜在成長力向上の阻害、財政政策の弛緩も大問題だが、それで日銀を責めるのは酷だろう。)
筆者においてのデフォルトは、金融政策正常化後に戻ることだ。
その時はじめて異次元緩和の費用対効果が可能になる。
ただし、それも1つの考え方にすぎない。
日本がニューノーマルに入り、そこから脱しない、脱することができないなら、渡辺教授のように超金融緩和をデフォルトと見てコストを考えることも可能かもしれない。
筆者はディスインフレの時代から、渡辺教授の示すファクトやプロセスについて概ね同意してきた。
しかし、結論については必ずしも一致せず、同じファクトやプロセスに基づき、逆の結論に至ることが多かった。
結局は、自分も他人も結果ありきの議論をしがちなのだ。
筆者はこうした現象こそ、経済学が本質的に抱える限界であると考えており、この学問分野が曲がりなりにでも科学になりえない証拠だと思っている。
しかも、先進国社会では、多かれ少なかれその疑似科学に権威を与えているのである。
(次ページ: 吸い寄せられていく社会)