【書評】なぜ日本の政治はここまで堕落したのか
榊原英資氏による政治・行政のシステムに対する論考。
副題は「松下政経塾の大罪」となっている。
筆者は榊原ファンなのだが、この本はかなりの駄作であると思う。 政治的な誹謗を狙ったものか、私怨を晴らすためのものか。 主張は明確だ: ただ、代案がいけない。 |
日本にとって優秀な公務員が必要なことは全くそのとおりだ。
論点はそこではない。
そのための方法論が問題とされているのだと思う。
かつて日本経済が元気だったころ、民間企業より安い給料で国のために働いた公務員が多くいた。
それに報いるため、天下りというシステムができあがっていった。
天下りは一概に悪いものではない
天下りは世界中至るところにある。
たとえば、榊原英資氏が大蔵省を退官した時、民間金融機関の頭取なりに就いたとしたらどうだったろう。
氏がその銀行の国際金融部門を指揮し、国内部門も強く感化していったとしたら、極めて望ましいことだったのではないか。
財務長官が民間金融機関のトップに就くというのは、他国でも珍しいことではない。
では、日本の天下りはなぜいけないのか。
システマティックなルートが出来上がっている
まず、いけないのは、ほとんどの天下りは天下る役人の実力に基づくものでないことだ。
省庁での職位に基づき、必ずしも適材適所とは言えないようなポストの割り当てがなされている。
しかも、公平性を鑑みてか、慣例・相場感のようなものがある。
天下りを受け入れる側も、官僚の(民間でも通用する)能力を見込んで、人物を指名するような形になっていない。
ポストを作るために無駄な事業に税金が使われる
さらに深刻なのは、年金問題などで明らかになったように、役人の行先を作るために事業・団体・法人・特別会計を作ってしまう場合だ。
このような場合、そもそも人件費という費目さえあいまいにされてしまう。
それでも人件費だけならばまだいい。
仕事を作るために無駄な箱ものに予算をつければ、それこそ人件費とはケタ違いの無駄遣いになってしまう。
優秀な官僚は大切だが、それなら正々堂々と
榊原氏が優秀な官僚を温存し、政治家の質を高めるべきと主張するのには異存ない。
しかし、優秀な官僚を温存するために不透明なやり方を続けるのは許されるものではない。
「見える化」は不可避の流れだ。
システム化された天下りは廃すべきだ。
本質がもしも「カネ」の問題なら、正々堂々と一般会計で計上すべきだ。
同時に、各省庁の局長以上のポストは政権が任命するのがよい。
民間企業でも(建前上は)株主が取締役を選任する。
官僚トップ候補が官民に広く存在し、切磋琢磨するならば、よりよいバランスの官僚機構になるのではないか。
官僚出身の大学教授・企業経営者が政権交代と同時に事務次官・局長に返り咲く
などといったケースがあってもいい。
人材市場でも神の見えざる手が働いていないか
何事も既得権益を作りすぎてはいけない。
同時に、長い停滞で傷ついた民間の痛みを分かち合わない官僚機構はよくない。
The Best and Brightestが公務員を敬遠するのも市場の作用なのではないか。
今の日本で本当に最優秀であるべきは公務員か。
そうではあるまい。
八方ふさがりの日本経済を再び拡大に導ける人。
今、The Best and Brightestは産業界にこそ必要だ。
ならば、公務員はなおさらそこそこに。